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音楽の道を諦めて宅建の資格を取った話と建築に興味を持った話

島田市の注文住宅のイラスト画像

全6回でお送りするこのブログは、筆者である僕が音楽の道を目指して東京で過ごしていた頃から、実家のある静岡県に戻って住宅業界で活躍するまでを臨場感たっぷりに描いていこうと考えています。

今回は第一回と言うことで東京での生活の様子をお話ししていく予定です。

それでは早速どうぞ。

音楽家を目指して東京で何もしない生活を送る

僕が音楽家を目指して静岡から上京しました。

大学を2年で中退し、アルバイトや契約契約社員として働きながら楽曲を作って、時々海外に売り込みに行くという暮らしをして5年が経とうとしています。

昼間は某商社で営業事務の仕事をして、家に帰ったらテレビを見ながらビールとご飯を食べ、ゲームをやってレコードを聴いたりして寝ると言う生活。

唯一、レコードを聴くと言う部分だけが多少音楽に関連していますが、ほぼ音楽家になるような動きをしないまま漫然と時間が過ぎ去っていました。

音楽家になるのであれば、空き時間には作曲をしたり、今どんな音楽が人気なのか、新しい楽器や機材等研究したりすべきです。

ところが日々の生活でちょうど良い感じにおさまってしまい、+ αの活動など正直ちょっと難しいかなぁと感じている日々…

5年間何もなかったわけではなく、実際にニューヨークの音楽レーベルと契約を交わしたこともありました。

ですが、その経験を生かして次なる一方を踏み出すエネルギーが湧いてきません。

もしかしたら、あの契約で満足してしまい、燃え尽き症候群になってしまったのかも。

そんな中、アパートに珍客が来ることになったのです。

友達の弟が大学を目指して居候しに上京してきた

僕は東京で一人暮らしをしていましたが、社会に出て最初に引っ越した部屋は2DKのアパートでした。

1人で住むには十分な広さだし、あと1人か2人ぐらいなら受け入れることができそうです。

それを知ってか知らずか、高校時代の友人が「弟が東京に行きたいらしいんだけど、居候させてくれる?」と電話してきました。

仲の良い女友達だったし、その弟にも何度か会ったことがあったので快くオッケーしましたが、どれくらいの期間入るつもりなのか不明だったのです。

結局、2年ちょっといたかな?

彼の名前は「あっくん」といいました。

あっくんが上京した目的は、美大へ合格するためでした。

理大と言うのは、東京芸大や多摩美術大学、武蔵野美術大学などの美術系の大学のことです。

こうした大学は、絵のうまさとかピアノの技術といった技能だけではなく、英語や数学などの学科試験もあります。

あっくんは、絵の練習などは好きでしたが、いわゆる学科の勉強には身が入らないらしく、その年の受験に失敗してしまいました。

どうするのかなと思っていたら、浪人を決断したのです。

つまり2浪と言うことになるんですね。

僕は昼間働きに行っていますので家にいません。

会社から家に帰ると、あっくんがいるわけです。

1年以上一緒にいると、それが当たり前になってしまい、今後どうするのかなど考えなくなります。

結局あっくんは、2年目も失敗し、3年目に入るときにはさすがにやばいと思ったのかアパートを出ると言うことになりました。

2年ちょっと浪人生活を送ったあっくんは、彼の幼なじみと2人でアパートを借りて住み始めることに。

そのアパートは原付で約5分の距離。

お互いに時々行き来する関係に、少しだけ変わりました。

住む場所が変わって、いろいろ考えたのでしょう。

あっくんは、いつまでも受かる見込みのない美大受験をやめて、建築デザイン系の専門学校に方向転換しました。

これは彼にとって正解だったのでしょうか?

僕にとっては意外と良い結果をもたらすことになったのですが。

実家の不穏な空気

たいした変化のない東京の暮らしが続く一方で、安定した田舎の暮らしを続けていた実家の両親。

その両親に思わぬピンチが訪れていました。

細かなことは分かっていませんでしたが、私の両親は住宅会社を営んでいたんです。

経営状態が以前ほど順調ではないというのはなんとなく分かっていましたが、いよいよ大変な段階に来ている印象。

そんなに大変なら会社を畳んだらどうかと思いましたが、そんなに簡単なことではないようです。

このときはまだ「時々は実家に帰って様子を見なければならないな」と感じていました。

長い間実家を離れて、東京で一人暮らしをしていましたが、思いもよらないことから再び意識するように。

初めて自分自身のこと以外の事柄に対して心配をしていることに気づき、ある意味新鮮な気持ちでした。

宅建て難しいの?時間あるからやってみた

実質的に音楽の夢をあきらめていた僕にとって、実家の両親の離婚危機は人生を考え直すきっかけになっていました。

また、数年間同居したあっくんが美大を諦めて建築系の専門学校に行き始めたことも少し影響しています。

僕の実家は、一般住宅を建築する会社をやっていました。

小さい頃、時々工事現場に連れて行かされたことを覚えています。

その会社は父が1代で築き、その時点で後継はいません。

息子である僕が繋がない限り、いずれこの会社はなくなるのかなあと思うと何とも言えない気持ちになりました。

東京での生活に手詰まり感満載だった僕は、一般的によく言われるように「手に職をつけた方が良いのかも」と多分に漏れず思いましたね。

手に職もしくは資格でしょう。

資格と言えば、「宅建」と言うワードが浮かんできました。

宅建とは今で言う「宅地建物取引士」の資格のことです。

当時は宅地建物主任者と言う資格名でした。

大学受験が何とか成功したことで、勉強方には一定の自信があった僕は宅建に挑戦。

かなり大変ではありましたが、結果から言うと一発合格することができました。

家を建てる仕事に全く興味はありませんでしたが、別の角度から建築というものを見る機会があったのです。

建築デザインの学生たち

何度か話に出てきている「あっくん」は、美大受験をあきらめ建築デザイン系の専門学校に通っています。

そこには、なかなか面白い仲間が何人かいました。

あっくんは居候していた僕のアパートを出て、原付で5分の距離にある場所で幼なじみと2人暮らし中。

時々僕も遊びに行ってダラダラと居座ることも。

そこで数人の学生と出くわすことがありました。

彼らは当然、建築デザインの勉強をしているわけですから、関連した本やときには課題を持ち寄って作業をしていることもあったのです。

建築系専門学校の課題はなかなか忙しく、制作すべきものの難易度もなかなかでした。

もともと手先が器用な僕は作業を手伝うことも多く、重宝がられていました。

そうした作業が楽しかったこともあり、建築デザインに徐々に興味が出てきた僕は、おのずと実家の住宅会社のことを考えるように。

こんな経緯もあり、このあと大きな決断をすることになります。

次回は決断に影響したその他の出来事を中心にお送りする予定です。

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